「『教育』という概念を捨てたい」
ふわぁぁぁぁ、この数日間でいろんなことが言語化できた...
始まりは2月だった。兵庫の高砂で行われた「U-19 子どものまちサミット」
当時(今もか)19歳だった竹入少年は、子ども側としての参加だった。
が、他の参加者とどうも話がかみ合わない。何か違う立場にいる。
そこで、初めて自分が子どものまちに関わる視点が変わったことに気が付いた。
同時に、教育を「施す」という意識を持っている自分に気が付いた。
それは喜びでもあり。
さんざん言っているように
恐怖でもあった。
一つは、自分が人に、子どもに関わる恐怖。
自分の与える影響力の未知性。
もう一つ、お前は偉くなったなと。
いつから「施す」なんて思うようになったんだと。
お前は、そんなことできる人間だったのかと。
自分の将来に対する悩み、迷いに苦しんだ2か月だった。
今も苦しんでいる。自分は何をしたいんだろうと。
人と関わるという第一の恐怖に隠れて、自分はもう一つ恐怖を抱えていることを忘れていた。
自分が「施す」なんていえるのか。
そんな立場は、教育に携わるものとしていけないだろう。
いわば、「天狗」の状態。
第七回の子ども実行委員会が少しうまくいったからって。
自分に何ができるんだろう。
子どもたちと「対等」に。
...「対等」と思うことがそもそも上からの発言なのかもしれない。
「自分は完璧な人間じゃない」
私は頭がよくない。人の話を聞くことも出来ないし、ちゃんとした答えが出せるわけでもない。
私には経験もない。せいぜいマネジメントがちょっとできるぐらいで、ファイナンスも、プログラミングも、なーんにもできない。できようとも思わない。
「指導者は、自分の指導に自信を持っているべきだ。」
私は指導者にはなれないな。自信なんて持てるわけない。
持ったら、それは成長にならない?
子どもたちの前で泣いてわめいて苦しんで、そういう人間だ。
自分がやりたいのは与える・施す『教育』じゃない。
そうなったら終わりだ。
そもそも、「教える」「育てる」ってこと自体、あまりよくないのかもしれない。
自分のことも、相手の子とも、一緒に真剣に悩む、そんな人間になりたい。
だから、頑張らなきゃいけない。
キャリアは自分が作るもの、という言葉もある。
頑張っている人を見ると、涙が出てくる。
昔の、ひたすらに運常に打ち込んでいた自分に申し訳なくなる。
私も頑張らなきゃと思う。
でも次に出てくるのは、「何を?」という疑問。
今、何を頑張ればいいのか。
自分は深海に沈んでいる。
本当は、手を伸ばすか伸ばさないかの違い。
頑張っている人は手を伸ばし、私は海のそこに沈んでいる。
相手から、海の上から手を指し伸ばしてくれればその手をつかむことはできる。
でも、ただそれだけ。
でも、まずは
こうやって言葉にできた自分をほめようかな。
ぐちゃぐちゃな頭の中。